ハドリアヌス晩年と、五賢帝の4人目「アントニヌス・ピウス」について語られています。アントニヌス・ピウスについてはわずか40ページしか割かれていませんが、何事も大事の起きなかった彼の治世こそが、真の平和の時代だったのではという気もします。
ハドリアヌス治世の本質については、前巻で大部分が述べられていたように思います。本書の記述部分で特筆すべき点は、美少年アンティノー、ユダヤ問題、そして気難しい老人と化した治世晩年といったところになるでしょうか。彼の晩年については、なんとなく2代目皇帝ティベリウスを彷彿とさせますね。両者ともに、2代目としては理想的な資質だったのかもしれません。
アンティノーの像は現代にもかなりの数が残されているそうです。なぜならハドリアヌスがたくさん作らせまくったため。質実剛健なローマでは白い目で見られたようですが、彼の好きなギリシャ文化においては、美少年愛はさほど珍しいことでもなかったとか。実子がなかったのは後継者選定の上でよかったという側面もあるかもしれません。あくまで結果論ですが。
ローマ帝国において常に火種だったユダヤ問題が、ハドリアヌスにより一定の結末を迎えることになります。ユダヤ人のイェルサレム追放、そして彼らの長い「離散(ディアスポラ)」の始まりです。もっとも、ただ感情的に弾圧したわけではなく、ローマ治世への度重なる反発に対応してのもの。ユダヤ教を捨てたユダヤ人は重用していたりするあたり、いかにも現実的なローマらしいところです。
治世の3分の2をローマの外で過ごしたハドリアヌス。衰えた晩年には気難しく扱いづらい老人となっていたようですが、皇帝不在でも完璧に機能する体制を作り上げていたのが、いろいろな意味で幸いしたといえるでしょう。様々な成果を挙げながらも死去直後はあわや記録抹殺刑の声も上がるほどの評判の悪さでしたが、五賢帝の一角に連なることからも分かるように、その評価はすぐに回復されたようです。
アントニヌス・ピウスは、ハドリアヌス不在のローマを支えた重鎮の一人とのこと。非常に誠実かつ温厚で、誰からも好かれる人柄であったようです。ピウス(慈悲深い)という二つ名からも、その性質は推し量られるところでしょう。気難しげなハドリアヌスとは全く対照的な人物で、前2代の皇帝により危機的状況の殆ど見られなくなった万全のローマを治めるには、全く相応しい人物だったといえるでしょう。
ハドリアヌスとわずか10歳しか歳の違わなかったアントニヌス・ピウスは、本来中継ぎ的な意味合いも濃かったのではないかと思われます。それが証拠に、ハドリアヌスとの養子縁組による後継者認定にあたり、のちに最後の賢帝となるマルクス・アウレリウスを自身の養子として迎えるよう条件がつけられます。アントニヌス・ピウスに男児がいなかったことも、ハドリアヌスとしては色々都合が良かったのでしょう。
中継ぎといっても、アントニヌス・ピウスの治世は最終的に23何年にも及ぶことになります。トラヤヌスがこね、ハドリアヌスがついた「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を完璧な形で引き継いだ、地味ではあっても賢帝の名に恥じない偉大な人物だったようです。
評価:★★☆☆☆
2010年9月25日土曜日
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